ウミと毒薬(もうひとりの自分、鏡の友人へ)
儀式のように、フランス産の水を飲みながら、FMラジオからは、
クラシック音楽が流れている。できるかぎりの朝の日課。
クリアなペットボトル、(今日はボルビックだが)その水面が微妙に、
オーケストラの弦楽器の音色だろうか?音に揺れている。
それともぼくの揺れる心でかしら。
これらは優雅とはほど遠い。チープな168円の水と、ステレオでないラジオ。
それでも睡眠で乾いた喉に水を流し込み、耳から脳髄へと音を落とせば、
自己のウミも、毒薬も、洗浄される。自己浄化機能だろう。
これに似た機能でいえば、ヒトは自己のなかに、
多くの自分の分身を、役割分担として存在させなければ、正常には生きてはいけない。
(ここでいう正常とは、社会という関わりでの意味)
でないと、極度に視野が狭くなり、自己判断しかできなかったり、
多角的モノの見方、捉え方で見えてこない。客観視ともいえよう。
ヒトの目とは、見たいものしか見ようとしない、眼機能である。
監視カメラや、仏様のような半眼開いて空をみるなどという、
客観視機能はない。色眼鏡、タモリさんどうようにサングラスの鉄則かいな。(意味違うね)
画家という者が絵画を描くときに、描いたらそのキャンバスから距離おいて、
その筆圧だけで確かめるという本能行為をやめて、後ずさりして、
4足動物からヒトに進化しながら、脳を働かせ、全体を眺めるのに似ている。
もしくはその絵画を、美術館やギャラリーの壁にかけて、
アトリエとは違う空気に包まれたときに、はじめて描きたかったこと、描いてしまったことが、
絶望や希望の水平線に、見えてくるのに似ているのだろうか。
そしてどんな映画監督でもそうだが、冷静や情熱のふりや、仮面をつけて、
多くの自分を分身させて、状況の拡散吸収して、現場という協働作業で眺めながら、
動物園園長さんの仕組みで、自己判断を捌きでないようにおこなうのだ。
でもどうだろう。どんなにこのようなこと並べたところで、
今はぼくも、洗浄浄化中の身であるな。
ヒトという存在は、見たいものを見たいように見てしまうし、
ヒトとの関係を捌いてします。処理してしまう。
これは【美の正体】からは、もっともほど遠い醜悪である。
必ず生きながられていれば、傷というものを受けたりおいながら、
パッカリと開いた傷深くから、ウミや毒薬をダラリと、だしつづけている。
でもそれは、まわりは常に見ているしかできない。眺めているだけしかできない。
なぜなら他人事という、主役の違うドラマだからだからね。
冒頭の儀式のように、チープな168円水や、お手軽なラジオでも、
日課のように自己浄化しかないのよ。(他にも方法論はあろう。)
それにその他人の、イタイタシサに、ミスボラシサに、ミジメサに、ゴシュウショウサマに、
まわりもどれだけ傷つくのことか。。。。まわりはその修羅に手はだせないのだから。
それなのに春のように、抱きしめてくれと叫ぶのは、酷というもの。。。
これは自分のことでもあるが、アナタ!もっとも信頼するヒトという脳と、動物という嗅覚をもつ、
友人のことでもある。。。。裸の王様だよ。
まあ、王様は裸だろうが、服を着ようが王様なんだよ、気がついてますか?
ままでいいのです。ままで愛されているのです。まま、すべてを抱きしめればいいのです。(難しいけど)
今目下の荒れ狂う海、その崖からの落下の巻沿いや、
周囲を分かってちゃん行動で連れ込むことも、
また、他人との距離感がたもてない、アスペルガ―症候群としての特徴なのだろうな。
でも、ウミと毒薬という毒液は、自我中毒になるのが一番の末路なのだ。
そんな姿は見ていてツライ。。。よね。
(昔に、まだまだ女の子にモテモテだった頃。よくそんなこといれた気がするな。)
他人に見せるしかない自分。
他人に分かってもらうしかない自分。
そんなチープな自分は、チープな水をがぶ飲みして、
チンポの先から放尿してしまえ!
ほら、チープなラジオから、察したように高らかにクラシック音色が掻きたてる。 出町光識
ユウジンヘダケノオマケ。アノトキノアナタノカオ、オドロクホドニ、ジェルソミーナ。
出町光識ホームページhttp://www.mitsunoridemachi.com/
クラシック音楽が流れている。できるかぎりの朝の日課。
クリアなペットボトル、(今日はボルビックだが)その水面が微妙に、
オーケストラの弦楽器の音色だろうか?音に揺れている。
それともぼくの揺れる心でかしら。
これらは優雅とはほど遠い。チープな168円の水と、ステレオでないラジオ。
それでも睡眠で乾いた喉に水を流し込み、耳から脳髄へと音を落とせば、
自己のウミも、毒薬も、洗浄される。自己浄化機能だろう。
これに似た機能でいえば、ヒトは自己のなかに、
多くの自分の分身を、役割分担として存在させなければ、正常には生きてはいけない。
(ここでいう正常とは、社会という関わりでの意味)
でないと、極度に視野が狭くなり、自己判断しかできなかったり、
多角的モノの見方、捉え方で見えてこない。客観視ともいえよう。
ヒトの目とは、見たいものしか見ようとしない、眼機能である。
監視カメラや、仏様のような半眼開いて空をみるなどという、
客観視機能はない。色眼鏡、タモリさんどうようにサングラスの鉄則かいな。(意味違うね)
画家という者が絵画を描くときに、描いたらそのキャンバスから距離おいて、
その筆圧だけで確かめるという本能行為をやめて、後ずさりして、
4足動物からヒトに進化しながら、脳を働かせ、全体を眺めるのに似ている。
もしくはその絵画を、美術館やギャラリーの壁にかけて、
アトリエとは違う空気に包まれたときに、はじめて描きたかったこと、描いてしまったことが、
絶望や希望の水平線に、見えてくるのに似ているのだろうか。
そしてどんな映画監督でもそうだが、冷静や情熱のふりや、仮面をつけて、
多くの自分を分身させて、状況の拡散吸収して、現場という協働作業で眺めながら、
動物園園長さんの仕組みで、自己判断を捌きでないようにおこなうのだ。
でもどうだろう。どんなにこのようなこと並べたところで、
今はぼくも、洗浄浄化中の身であるな。
ヒトという存在は、見たいものを見たいように見てしまうし、
ヒトとの関係を捌いてします。処理してしまう。
これは【美の正体】からは、もっともほど遠い醜悪である。
必ず生きながられていれば、傷というものを受けたりおいながら、
パッカリと開いた傷深くから、ウミや毒薬をダラリと、だしつづけている。
でもそれは、まわりは常に見ているしかできない。眺めているだけしかできない。
なぜなら他人事という、主役の違うドラマだからだからね。
冒頭の儀式のように、チープな168円水や、お手軽なラジオでも、
日課のように自己浄化しかないのよ。(他にも方法論はあろう。)
それにその他人の、イタイタシサに、ミスボラシサに、ミジメサに、ゴシュウショウサマに、
まわりもどれだけ傷つくのことか。。。。まわりはその修羅に手はだせないのだから。
それなのに春のように、抱きしめてくれと叫ぶのは、酷というもの。。。
これは自分のことでもあるが、アナタ!もっとも信頼するヒトという脳と、動物という嗅覚をもつ、
友人のことでもある。。。。裸の王様だよ。
まあ、王様は裸だろうが、服を着ようが王様なんだよ、気がついてますか?
ままでいいのです。ままで愛されているのです。まま、すべてを抱きしめればいいのです。(難しいけど)
今目下の荒れ狂う海、その崖からの落下の巻沿いや、
周囲を分かってちゃん行動で連れ込むことも、
また、他人との距離感がたもてない、アスペルガ―症候群としての特徴なのだろうな。
でも、ウミと毒薬という毒液は、自我中毒になるのが一番の末路なのだ。
そんな姿は見ていてツライ。。。よね。
(昔に、まだまだ女の子にモテモテだった頃。よくそんなこといれた気がするな。)
他人に見せるしかない自分。
他人に分かってもらうしかない自分。
そんなチープな自分は、チープな水をがぶ飲みして、
チンポの先から放尿してしまえ!
ほら、チープなラジオから、察したように高らかにクラシック音色が掻きたてる。 出町光識
ユウジンヘダケノオマケ。アノトキノアナタノカオ、オドロクホドニ、ジェルソミーナ。
出町光識ホームページhttp://www.mitsunoridemachi.com/
by ubusuna-art
| 2012-01-25 08:39
| 日常(現世)
出会いはアート。アトリエでのアート制作と、夜な夜なの日常是映画劇場のご案内。出町光識の脳内ナビゲ―ション日記
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